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第一章 創業前史

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  • 『毛吹草』(松江重頼著):正保2年(1645)に、俳人松江重頼が俳諧の題材として、国々の物産を紹介したもの。
  • 「関東木綿訳合書上」:寛政2年(1790)のもの。木綿問屋の白子組が、小売店の日本橋の呉服店白木屋に売り込む際に出した文書。

片山家の遠祖は、安土桃山時代の末期に紀州から黒潮に乗って房総の地に移ってきたと伝えられています。室町幕府滅亡後、房総の地には、戦国の武将木曽義昌(朝日将軍木曽義仲の末裔)の一族が善政を敷いていました。
片山家は、この地で累代農業を営みながらしっかりと根付いていったものと思われます。

江戸前期の俳書『ふきぐさ*1 の中で、「安房の木綿」が名産品として、はじめて紹介されています。その後も房総の綿の栽培や木綿織物のことが文献にたびたび表れてきます。

17世紀中頃には関東でも綿花の栽培が盛んになり、寛永年間(1789~1801)には、関東の綿が豊作のため、上方から仕入れた繰り綿が売れなくなるほど生産されるようになっていました。
房総の木綿が商品として取引されていたことが分かる最も古い記録は、寛政2年(1790)に記された「かんとう綿めんわけあいかきあげ2 です。この史料には、下野真岡、武州岩槻、下総八日市場の三か所の関東木綿の来歴が記されています。
このことから、八日市場木綿の始まりは、明和~安永年間(1764~1780)と考えられます。

旭市は、南部が美しい弓状の九十九里浜に面し、砂地ながら気候が温暖で日照に恵まれ、適度の雨量があり、収穫期には雨が少ないという綿花の栽培に向いた自然条件が整い、北部は干潟八万石といわれる房総半島屈指の穀倉地帯となだらかな丘陵地帯である北総台地が広がっています。
こうした環境のもとで何十軒とある綿花栽培農家のひとつとして片山家は、ごく自然に綿花づくりと関わっていったようです。

第二章 創業期~台頭期

  • 初代
    初代
  • 二代目社長
    二代目社長

3 実綿の生産量の変遷「千葉県統計年鑑」より

慶応2年(1866)、創業者となる片山定吉が15歳で、ふとん綿の製造と販売の店を旭市ロ658番地(現わたしん旭店)で始めます。当初は自家で栽培した綿花を綿摘みして、綿繰り機を使い、綿と種を分け、綿打ちをしたり、糸車を使って糸を紡いだりもしていたのではないかと思われます。
明治に入ると千葉県の実綿の生産量は増え、明治27年(1894)には、年間で1,762,000kg(約47万貫)*3となり、ピークを迎えました。

ところが明治29年(1896)、綿花輸入税が撤廃され、外国産の安価な綿花が出回るようになると国産の綿の栽培は衰退し始めます。創業者は、これから商売をどのように広げていくかを考えざるを得なくなり、綿打ちの技術を活かしながら、ふとん綿の生産や打ち直しの方へと経営を徐々に移行していきました。
その後、実綿は明治44年(1911)には年間の生産量が262,500kg(約7万貫)とピーク時の7分の1まで減少してしまったので、二代目を継いだ片山一次郎は同じ年に“わた・ふとんの仕立て・蚊帳の店”片山綿店を設立。綿花の栽培をやめて、一般のお客様を対象に、ふとん綿を売ったり、注文を受けて綿の入った敷ふとん・掛けふとんを仕立てて売る店へと変えていったのです。

年 三代目片山真之助の出征

昭和19年 三代目片山真之助の出征

そのころ銚子から旭にかけて同業者が10軒から15軒以上ありましたが、次々と廃業していく中で、片山綿店は、ほかに先んじて、それまで手で打っていた綿を機械で打つようにしたり、また加工綿の生産に特化して、専門店化を進めるなど時代の変化にいち早く対応していきました。

第一次世界大戦下の大正6年(1917)、飛躍的に拡大する需要に応えて、新しい製綿機械設備を導入しています。その頃には、家庭での需要はもちろん、旅館や病院、公共宿泊施設等での需要も高まり、ふとん綿をお求めになるお得意様の絶対数が増えていきました。

  • 三代目社長
    三代目社長
  • 四代目社長
    四代目社長

昭和9年(1934)、三代目片山真之助は、本来家庭で行っていたふとんづくりをお店で請け負うことにして加工部門を設け、ふとんや蚊帳の仕立てを始めました。同時に、夜具地や枕、レーヨンの毛布などの販売も始め、寝具が多様化していく生活環境の変化に対応しました。
当時ふとんは高価なもので、火事の際には真っ先に荷車に積んで持ち出すほどで、それだけ財産として大切に扱われていました。

第三章 戦後復興・飛躍期

昭和20年(1945)に戦争が終わり、戦地から帰ってきた三代目社長の片山真之助と弟である四代目社長の片山安五郎は、昭和22年(1947)に片山綿店を法人組織に変え、合資会社片山商店を設立。戦後復興の歩みに歩調を合わせて店を再開しました。
翌年には商工省(現・経済産業省)の指定製綿工場となり、輸入綿花の取扱い指定業者となります。原綿はインド、パキスタンあたりから横浜に入り、許可を得た業者だけが取り扱うことができ、それを自社の製綿工場で木綿わたに加工していました。
昭和27年(1952)に、自社の製綿している木綿わたに商品名をつけ、卸もやることにしました。それは“福天狗わた”と名付けられ、商標を登録し、わたの製造元・寝具卸として小売商を相手に大いに売って、売り上げを大きく伸ばしていきました。

戦災を免れ、残ったお店で戦後再開

戦災を免れ、残ったお店で戦後再開

昭和30年(1955)、自社の製綿工場を旭市ロ447番地(現わたしん本部)に移転。昭和34年(1959)には、国鉄・千葉鉄道管理局の指定店となって、大口のお客様の獲得に成功します。
しかし住宅環境が整うにつれて、生活習慣も変わっていき、木綿わたを買って、自宅でふとんを打つ人が急速に減り、代わって製品として出来上がっているものを購入するのが一般的となってきました。アクリルなど合成繊維わたが開発されたのもきっかけとなって、木綿わたそのものの需要が徐々に落ちて行き、小売店に卸す量も大幅に減ってそれなりの利益がでない状況になってきました。

戦災を免れ、残ったお店で戦後再開

昭和27~28年頃の旭店に福天狗を飾った七夕祭りセール

  • 店頭の賑わい
    店頭の賑わい
  • 店内の賑わい
    店内の賑わい
  • 昭和30年頃の製綿工場正門
    昭和30年頃の製綿工場正門
  • 工場内での製綿作業風景
    工場内での製綿作業風景

昭和40年(1965)、現在地(旭市ロ658番地)に旭店を新築(鉄骨2 階建て)オープン。近隣の商店には見られない、はじめてのコンクリート店舗でした。昭和44年(1969)、後に五代目となる片山勲が常務として入社し陣頭指揮を執ることになります。昭和46年(1971)には、旭店を鉄骨4階建てに増改築して売場を広げ、4 階には職人がわた打ちや打ち直しをする作業スペースを設けました。

昭和40年新築した旭店竣工写真

昭和40年新築した旭店竣工写真

開店日の店頭全景

開店日の店頭全景

第四章 発展・拡大期

旭店開店記念セール告知チラシ

旭店開店記念セール告知チラシ

この時期には、すでにわたの卸がすっかり頭打ちになっていました。昭和47年(1972)に、初めて千葉市内にお店(セントラルプラザ内にテナントとして出店)を出したのをきっかけに経営方針を転換し、卸をやめて小売り専業で行くことにしました。それに伴い10年間で10店舗程度出店するという拡大戦略を構想。
この時代、イトーヨーカドーやジャスコ(現イオン)など流通業界が多店舗化の時代に入っていたので、それに刺激を受けたところがあります。ものがたくさん売れる時代だから、投資をして努力すれば店舗数は増やせる。お店の数を出せば売り上げはアップする、それが時代に合った商売のやり方だ、との信念でした。

昭和48年(1973)に銚子店を、昭和50年(1975)に木更津店を、昭和52年(1977)には八日市場店と出店を加速していきました。
千葉店を閉めたあと八日市場店を出店する際に、テナントビルへの出店をやめ、今後は独立店舗での出店を原則に掲げました。それは寝具店では、ある程度以上の売場面積を必要とするので、坪単価の高い繁華街のテナントビルよりも、少し中心部を離れても広いスペースを確保できるロードサイドに展開する方が得策との判断からでした。
昭和54年(1979)には、さらに佐原店を出店しました。

昭和55年(1980)に入ると、合資会社片山商店を吸収合併し、新たに株式会社わたしんを設立。ここに至って片山勲が、名実ともに環境が整い五代目社長に就任しました。

昭和59年(1984)に君津店を出店。翌昭和60年(1985)には、木更津店を新築移転しました。後のことになりますが平成10年(1998)に、この2店舗は「株式会社わたしん京葉」というグループ会社に移管されることになります。

セントラルプラザ

セントラルプラザ

第五章 営業戦略転換期

第1回優真会の会場内風景01
第1回優真会の会場内風景02

第1回優真会の会場内風景

平成元年(1989)、年号が平成と変わった年に「健康元年キャンペーン」と銘打ち、新しい営業戦略を打ち出しました。商品が入荷すれば、黙っていても売れるモノのない時代から、婚礼セットを中心とする高額商品が売れる時代を経て、ただ商品を並べるだけでは売れない時代が来ました。そこでこれからは無圧ふとんや羽毛ふとんなど「健康」をテーマにした商品をしっかり売って行こうという意味での路線変更が行われました。
それまで眠るための道具だった寝具が、健康を考えた睡眠をとるための大切な用具というように、寝具そのものの位置づけが、生活の中で改めて見直されることになってきたのです。
その気運に合わせて、睡眠に役立つ寝具用品を長い目で見てお客様に提供していく、アフターフォローもしっかりやることで専門店としての信頼を勝ち得ることを目指して転換しました。

また平成11年(1999)9月には、従来なかった総合催事として、上得意のお客様をご招待する展示会「優真会(優れた品々を真心サービスでご提案する会)」を初めて開催し、以後今日まで継続して開催しています。

平成13年(2001)には、業務拡張のため、本社・倉庫を現在地(旭市ロ447番地)に移転しました。この頃には、木更津店と君津店が別会社となってわたしんは4店舗になっていたので、売上げが減少していましたが、フェアを頻繁に行うことで急速に売上げを拡大させました。が、その反動から売上げを落とすことも経験しました。古くからのお客様にさらなる商品のお買い上げをうながして増やした売上げでしたが、需要が一巡すると売上げは鈍り、新規の顧客の拡大が進んでいないことがはっきりとしたのです。
平成15年(2003)、営業本部長・片山慎一が各店を統括するようになり、特に重点強化の方針で平成16年(2004)10月には、わたしんのフラッグシップ(旗艦店)となる旭店を新しい構想のもとで建て直し、オープンしました。続いて平成17年(2005)に佐原店を国道51号線沿いへ新築移転。平成19年(2007)には、旭店2階フロアを改装して、こだわりベッド館を新装オープンしました。

  • 平成12年 枕測定器
    平成12年 枕測定器
    (ピローフィッター)の導入
  • 福島県保原町・真綿工場視察
    平成12年 福島県保原町・真綿工場視察
  • 平成14年 西川宇都宮工場
    平成14年 西川宇都宮工場
    (羽毛布団工場)各店店長参加で視察
  • 平成15年 ポーランド羽毛を確保するため農場契約
    平成15年 ポーランド羽毛を確保するため農場契約
  • 平成16年 旭店新装オープン
    平成16年 旭店新築オープン
  • 平成17年 佐原店を新築移転オープン
    平成17年 佐原店を新築移転オープン
  • 平成19年 旭店2階を改装、
    平成19年 旭店2階を改装、
    こだわりベッド館をオープン

第六章 再構築・改革期

平成20年西川整圧ふとん工場視察

平成20年(2008)、片山慎一が六代目社長に就任しました。
すでに平成10年(1998)頃から一部では行われていた、枕と敷きふとんの最適な組み合わせ提案を、お客さまにお試しいただけるよう、平成23年(2011)には、旭店1階フロアに、そのためのスペースを設けました。
平成25年(2013)には県外初の出店となる、茨城県神栖市に鹿島神栖店を出店しています。

商店(綿花の栽培・製造、販売)から綿店(わた製造・卸、ふとん小売り)へ、さらに寝具専門店(小売り全般)へ、そして眠り(=健康)をお届けするプロショップへと、一世紀半の歴史の中で、時代の変化にいち早く対応し、近代化・合理化を進めてきたのがわたしんの歩みです。
近年お客様の“眠りを大切にしたい”という認識はますます高まり、その多様な要求にお応えするためにも、専門店としての知識と技術、経験が求められています。商品・店舗・サービス、すべての面にわたって革新する戦略と実行力が必要です。その一歩が創立150周年を機にこれから始まります。

  • 平成21年 今治タオル直接仕入れ
    平成21年 今治タオル直接仕入れ
  • 平成22年 西川ドクターセラ工場視察
    平成22年 西川ドクターセラ工場視察

平成23年 旭店1階枕コーナーを開設
平成23年 旭店1階枕コーナーを開設

  • 平成24年 アイスランド羽毛の直接買付け
    平成24年 アイスランド羽毛の直接買付け
  • 平成25年 旭店での真綿勉強会
    平成25年 旭店での真綿勉強会
  • 平成25年 茨城県神栖市に鹿島神栖店をオープン
    平成25年 茨城県神栖市に鹿島神栖店をオープン
  • 平成25年 旭店での真綿勉強会
    新サービス「一人ひとりにピッタリ合う完全オーダーメイド枕のご提案」開始

参考文献:千葉県立房総のむら平成26年度特別展「もめん-房総の木綿文化-」展示解説図録